環境問題

  • 2008/12/14(日) 22:35:08

以前、環境問題で法話を書いたという話しをしたところ、

ぜひ読ませてほしいとのお声を頂戴しておりました。


始めはそう仰ってくれたお方だけ、

それが載った雑誌をお送りしようと思っていたのですが、

諸事情によりこの場に記載いたします。


今読み返すと

もう少し推敲が必要な気がしますが、

とりあえず…



(以下 法話)




私達は、高いビルが立ちならんだ風景を人工的といい、

田舎の森や川を自然だといって、

すぐよいものだと考えてしまいがちです。


しかし、暮らしにより便利なように

手を加えるという点だけつきつめて考えれば、

川の流れを変えて水田を整備し開墾することと、

エアコンのきいた部屋でパソコンを使って買い物をすることとは

基本的に同じことであるのかもしれません。


人間が生きていくということは、

もともとの自然環境を何らかの形に人工的に変化させ、

適応させ、言葉を変えれば破壊せざるを得ないのかもしれません。

人間はそういう本性を持っているような気がします。


「より便利で快適に生きたい」という欲望に身をまかせ、

次から次へと消費や破壊を繰り返す人間の姿を

仏教は問題にしているのです。





私が小学生の頃、

ふとしたことで足を引っかけて

夕食用に炊くはずだったお釜に入ったお米を

こぼしてしまったことがありました。


ほうきを持って掃こうとしている私に祖父が駆け寄り、

一緒にひろおうと言いました。


私が渋々お米をひろい始めると、

祖父は一緒になってお米を一粒一粒ひろってくれました。



その時、私に向かって

「ブッポウリョウ、ブッポウリョウ」と言いました。


「それ何?どういう事?」と尋ねると、

祖父は「仏さまのものっちゅうこと、南無阿弥陀仏」と答えました。


私はその言葉を忘れることができません。




「仏法領」とは本願寺第八代蓮如上人が仰ってくださったお言葉です。

床に落ちた紙切れ一枚も仏さまからの賜り物と受けとっていかれたのです。




人間が消費するあらゆるものを「仏法領のもの」と

お聞かせいただいたのならば、

電気のスイッチを押すときも、ゴミを出すときも、食べ残した魚の骨にも、

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と

お念仏がこぼれる生活を

させていただけるのではないでしょうか。


お恥ずかしい、

もったいない、

かたじけない。


これほどのものを頂いて、

今日もまた尊い一日を過ごさせていただきます。

ありがとうございますという心持ちで称える念仏は、

報恩感謝のお念仏です。


阿弥陀さまとご一緒の生活の中に

このような世界がひらかれるのであれば、

むやみやたらに大量消費を繰り返すだけの暮らしは

ちょっと変わってくるのかもしれません。

抑止門のこころ

  • 2008/12/04(木) 11:41:10

御本願には「生きとし生けるものすべてをもらさず救う」と

説かれています。


しかしその後に、「唯除五逆誹謗正法」といって

五逆の罪を犯すものと仏法をそしるものは

その救いから除くとあります。


一見矛盾しているように感じるのが

この御本願です。




これを親鸞聖人は、

文字としては「除く」と説かれているけれど、

実際には「救う」というお誓いであるということを

論理立ててあきらかにして下さっています。


「五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせむと也」

つまり、五逆の罪を犯す人を嫌い、

仏法をそしる罪の重いことを知らせようとしているのです。


この二つの罪の重いことを示して、

すべての世界のあらゆるものが

みなもれることなく往生できるということを

知らせようとしているのであります。


ですからこの御文は、

宗学の上から抑止門(おくしもん)とよばれます。


私は大学時代に「唯除〜」の御文を

このように学びました。





ところがこれを聞いてすんなり納得できたかというと

そうではありませんでした。


「救う」と「除く」は全く反対のことでしょ。

「救うのだったら唯除とかいうなよ」と

なんか腑に落ちないような感がありました。



そんなある時、抑止門についての法話を読んで

「親なればこそ」というお言葉に出遇ったときに、

初めてこのおこころが受け取れた気がしたのです。



皆さん、親から本気で叱られたことがありますか?



(以下引用)






まだ、小学生の頃、

食事に使うナイフでいたずらをしたことがありました。


家の畑のキャベツにこのナイフを投げつけ、

的当て遊びをしていたのです。


せっかく育ったキャベツは、

むちゃくちゃになってしまいました。


何が面白かったのか今にしてみればよくわかりませんが、

とにかく、そこにあるだけ全部を

同じように使い物にならなくしてしまいました。




そして夕方、母がたぶん夕食にと、

キャベツを取りに畑へ行き、そこで私の仕業を目にしたのでしょう。


血相を変えて家に戻ったかと思うと、

有無を言わぬまま私を畑へ連れだし事情を問いつめました。


私は何とも答えようがありませんでした。

その時初めて、自分のしたことの重大さに気がついたのです。


その瞬間まで、自分が何をしたのかさえ忘れていました。


 「出ていけ!」


母のあんな恐ろしい、悲しい顔は、

見たことがありませんでした。

母は「許す」ことをしませんでした。


追い出された私はというと、

家から少しだけ離れたところで、

どこへも行けず、どうすることもできないまま、

何分か、何時間か、立ち尽くすしかありませんでした。


どのくらいたった頃か、

祖父が迎えに来て、母にとりなしてくれたのを憶えています。





わが子なら親ならこそ

母のしたことは、正しいことです。


いや、親であるがゆえに、

ああしなければならなかったのです。


今は私も親という同じ立場ですから、

自分の子どもに対して母と同様にするでしょう。


もしこれが、よその子のことなら、

注意はするでしょうが、きっとそこまでです。


「我が子」だから。


親ならば、何より、我が子が間違いを犯していくのを、

黙って見過ごすことはできないのです。


「出ていけ!そんなことをするのは、うちの子ではない!」と

言わねばなりません。


けれど、本当にそのまま、捨ててしまうつもりはないのです。



言葉を極めて、厳しく当たり、

「二度とするなよ。今度は許さぬぞ」と、

かえって我が子の行く末を案じ、

泣いているのです。



我が子であるからこそ、放ってはおかれないのです。


「そのまま救う」とよびかけてくださる如来さま。

この如来さまを、私たちは「親さま」とお呼びします。


私を我が子としてくださるからこそ、

あえて「悪をなすものは除くぞ」と

誡(いまし)めてくださいます。


「罪を犯すことなかれ」と、止めてくださいます。



「ただ、五逆罪のもの、非謗正法のものは除く」といわれるご本意は、

まことの親であるからこその、

せつない、やるせない親心からのお言葉であったのかと、

今さらながら、尊く、かたじけなく思いました。




(以上 引用)   布教使  桐野 仙照 師

「つながり」 (ゴーマ通信の原稿)

  • 2008/07/19(土) 23:15:00

携帯電話が普及して、

人と人とが簡単につながり合える時代になりました。


寂しいとき、不安なとき、嬉しいとき……。

不思議と家族の声が聞きたくなる時がありませんか。


人が一番安心感を感じる時というのは、

誰かと(何かと)つながっている時だと思うのです。





抱き枕という商品がありますが、

あれを足に挟みながら手で抱っこする形で寝ると、

なぜかほっとして、寝つきが良くなりませんか。


あれも無意識的にですが母親とのつながりを感じられて、

なぜかほっとして、

寝つきが良くなるのでしょう。


抱き枕で無くとも、

朝起きたら布団を抱いて寝ていた

という経験をされた方もいると思います。





私達は、生まれる前はお母さんとつながっていました。

そして生まれてまもなく、

へその緒が切られてお母さんと分離してしまいます。


人間は生まれてすぐに、

孤独と不安という世界に放り出されるのです。


赤ちゃんは不安を感じて大きな声で泣きますが、

そんな赤ちゃんに対して

「大丈夫だよ、お母さんだよ」と言いながら

全身で抱きしめてくれるのが母親です。


そうすると、さっきまで泣いていた赤ちゃんが泣きやみます。

お母さんとつながるので安心感を持つんですね。





ところが、分離することに不安を感じ、

つながりを求めて生きているのが本性であるにも関わらず、

私達は自らそのつながりを拒絶してしまうこともしばしばです。


あまり人から干渉されすぎるとうっとうしく思えてきますし、

人の親切すら素直に受け取れないこともあるのです。

抱っこされてもなかなか泣きやまないのが我々であります。


しかし、そんな私達を見捨てることなく、

泣きわめく我が子に向かって

「一人じゃないよ、私がいつも一緒だよ」と

常に喚び続けて下さるのが大悲の親さま、

阿弥陀さまです。



そして、私達が命終わっていく先も、

お浄土に生まれ、さとりの仏にするという無量のつながりをこしらえて、

私の口から南無阿弥陀仏と出てくださいます。





どんな賢い赤ちゃんでも

最初から「お母さん」とよぶ赤ちゃんはいません。

我々が「お母さん」とよべるのは

「私がお母さんよ」とよび続けてくださった親がいたからです。


我々が南無阿弥陀仏と親の名がよべるのは、

ずっと喚び続けて下さった阿弥陀さまがいたからです。

「安心しなさい、まかせなさい」と。